8/25 原始演劇とバンカラ

知人に処女作の演劇を見せる機会があり、折角なので見返した。脚本からはIQを感じず、役者の演技には浮浪者のリズムを感じ、椅子しかない簡素な美術には演出家のビジュアルに対する眼のなさを感じた。

 

普通であれば小っ恥ずかしくなって居たたまれなくなるのだが、自分の作品でもあるから笑いが止まらない。この旨を主演のイオグランデ齋藤(現・齋藤のようなもの)に伝えると、「原始の演劇だから」と短く返事があった。

 

数年前の俺は、一度も演劇をやったことのない人間だし、作中出ずっぱりの役者は全員が門外なので、この作品は「原始演劇だ」と声高に叫んでいた。なお、照明の伊藤さんは「伊藤さんに頼めば間違いない」と信頼の厚いお人だったので、俺たちは渡来人と読んでいた。

 

俺たちの「原始演劇」には技術とかテクニックとかなに一つ見て取れなかったけど、生命を描こうとしていた。生命はエネルギーであり、外部へ放出されたとき「迫力」となる。それは最近言葉にできたことだったけれど、三年前から既に掴もうと足掻いていた。

 

映画でも演劇でも脳味噌の中が現場であり、外部と交わることはポストプロダクションだと俺は思っている。編集は万能かもしれないが、絵がなければ何もできない。撮りたい絵がなければ、それは撮っているのではなく、録画ボタンを押していることにしかならかい。そしてポストプロダクションこそが、己の誠心誠意を試す晴れ戦だ。

 

倫理的にも作品的にも時代の感性を持ち得ない時期は、誰にでもある。何故否定してたのか。

見えないものを見ようとし滑稽な仕草を連続していた様子に道化のような悲しみを感じていたが、それこそが俺であり、もっとも人間だった。

 

そしてその滑稽な様子を信じ付いてきてくれた役者の演技に、必要なものは揃っていた。

 

三年後の今、堕落しては淵に立ち、堕落しては這いつくばっては爪を血で濡らした暁を思い出し、確信を得る。人間の迫力に勝るものなし。

 

神は死に、美を崇めた日本人も死に、近代やポストモダンなぞのふわっとした言葉も生き絶える。

 

バンカラはハイカラのアンチテーゼとして生まれた脆く弱い言葉だ。ただし、変革とか凌駕とか、政治およびイデオロギーなど集団の思想ではない。ただ「日本人としてより良くありたい」と願い実践する個人の在り方を指す。

 

風は冷たく強くあれ。

 

その方が、旗は鳴り響く。