BANKARAは一日にしてならず

Keep on making films.

2/28 飽き飽きした食事

今日これまで考えていたことが確信になった。

ので、さっさと生きようと思い始めた。

無駄を削ぎきりたいと心がけて訴える。

優れた技術を信奉し、自分の道に生かしたい。

 

結局は、世襲なのだ。

上に行けば行くほど世襲であり、

ただの真似事である。

 

それが左右から上下の社会の髄だろう。

しかし、左右もそんな神聖視していいものかとは思う。結局はつまらない孤独に過ぎないのだろうか?

陳腐さに心が過剰に反応する。

つまらない、ただつまらない。

 

既存の体制・仕組みが世襲化され、

ロクでもない奴らに支配され、

自信のない才能が食い物にされ、

ただの死に体となる時代か。

 

寝よう寝よう、飽き飽きした人生には

サヨナラだ。

2/28 境界線のための忘備録

1/24の世界に歓喜の声を上げていたが、のちに音楽をつかないといけないことがわかり、どうしても中途半端になってしまう。音楽は映像を繋げるが、音楽がなければ映像を作れない人間は失職する。サイレントの世界は、軽いノリが求められる業界では大して需要がなさそうだ。したがって、早急に去ることを求めよう。

 

下町から新潟駅まで13分ほどで着くという最速タイムを叩き出し、マルタケビルのスタバに入り、発注の打ち合わせを行う。(今日この時にもコロナウイルスが蔓延しているかと思うと、気をつけなければ)

 

今回の打ち合わせは仕事ではなくプライベートの側面のものであったが、彼曰く「千葉くんのこのコンセプトはもっとみんな聞きたいと思うから、作って一部の人で共有して終わりはもったいないよ」と言われ、まぁそうだよなと思い頷くが、自分から話す気にはなれそうにない。誘われれば話すし、他人にも見せる。(大して自分のプライバシーに関心がない)

しかしまぁ、なんというか、今回の内容は極私的であり、かつ、過激なものである。ただそれは、少年時代にみな親から教わったはずのものだ。そして、日本人のほとんどが実践できていないものだと思っている。

 

中身はまだ知らせたくないものなので、ほんわりといっているが、いつかこのブログに書きたいと思う。

 

その方も、普遍的な内容だと納得されていた。

まぁ、ルーツの話だし。

 

今日は、こんな結論。

 

そういえば最近、雑音が減った。

 

2/27 個人の時代の終焉 ー妄想ー

2020年以降、個人の時代が終焉を迎えると思う。次に来るのは、チームの時代かな。

 

2010年代は「好きなことで生きていく」という言葉が流行り、ネットでもそうした甘い話はいくらでも垂れ流されてきた。(本当に好きなことで生きていけるのだとしたらヒカキンは性的なモノをもっと露出してもいいのではないのかな)

 

フリーランスになって分かったことは、

好きなことで仕事なんてたいしてできないし

事務仕事など自分の魅力を半減するものも

やたらめったら多いというわけだ。

 

ならば、当然、他人に任せたい。

ただし、個人を抱えるリスクが高いとなると外注したいが、良い人に任せたいし、志のある人に任せたい。

 

 

 

それが企業であれば企業に、

しかしこれまで以上に選択肢としてフリーランスが増えたのだから、フリーランスに任せる人も増えるだろう。

 

また、これに加えて動画というかつてない自己発信が生まれたのも大きい。

エンタメの大部分を担っていたのはこれまでテレビや芸能人であったが、YouTuberが見せつけたのは枠にはまらない個人。まぁ、テレビ見るより友達と電話する方が楽しいというのもある(マリオ生みの親である宮本茂氏はケータイ電話のメールをライバルとしていた時期があったらしい)

 

しかし、YouTuberは1再生高くても0.1円と聞くし、毎日あげるのはキツいし、YouTubeだけで食べていけるほど簡単な世界でないどころか、カテゴリーレベルでは飽和しつつある。

 

それに、結局はUUUMみたいに会社レベルでやってるとこが強い。

 

加えて、再生数主義であれば、動画の内容も当然マスに向けたものになり似たり寄ったりになってくる。

 

こうしたことを考えると、

次は、

 

①個人レベルでは弱くても、チームになると化ける集団

②グローバルではなく、壁に阻まれているローカル(それでも情報はクラウドで運ばれる)

③新規性かつエンタメ性

④新しく登場する媒体(過去流行ったものでも可能。僕はニコニコが復活すると思ってる)

 

そうなるんじゃなかろうかな。

動画配信の素晴らしさは、

それで食べていくことよりも、

毎月確実な収入を得やすいことにある。

 

2021年くらいからちょくちょく出始めて、

2022年に話題になり、

2023年に新規参入が増えて伸びそう。

 

YouTubeはどうなるか分からないけど

シニア層のビジネスかつ、

「無料」の情報を貰えるサービスに成り下がるのかもなーなんて、予想というより偏見で考えます。

 

激動の一月を過ごし、

安寧の二月を過ごして分かったのは、

無料の情報よりも一杯のコーヒーにお金を払う方がタメになるということです(二杯目を払うことになったのなら万歳じゃない?)

 

2/26 銭湯の中で1時間考えたこと

銭湯で1時間、人生についてぼんやりと考えた。そして、ただ単に、真っ当な人間でありたいと思った。

 

真っ当な人間とは、僕の中では、運命に抗う人を意味する。現代人は運命を壮大なもの、実生活からかけ離れているものと捉えているが、古代から現代まで関係なく一貫として一人一人の内側に内在する。

 

たとえば、グローバル社会が進む今、選択肢は、自分の意思関係なく狭められていると思う。それを当然だと、選択肢なぞ少なくて当たり前であり僕の言うことを感傷的だという経験論者に対しては、人間は自分の選択を正しいと思い込みたい心理があると科学的な根拠付きの事実を述べたい。

 

もちろん僕の意見で事実は捻じ曲がるわけでもないので、おおよそ大人の世界ー僕が19年間生きてきた社会ーでは、それが正しいとされる。

ここまで経験的な見解を詰められれば、僕の見解は価値観の否定にしかならず、同じテーブルで話すことさえなかなか叶わないので、その社会を出たのだと思う。

 

ただ、自分の気持ちに対して真っ当な人間でありたい。そのためには、今は、運命に抗うのが真実だと思う。

 

抗った後、自由とお金を手にしたのであれば、畑を耕すことを故郷とする人に土地があるよと言い、理不尽さを否定し女性の生きやすい社会を作りたい人に機会を届け、そして私の居場所を保つための努力をしたい。

 

他人から見れば理解できない生き方を全うする狂人でありたい。一個の人間の絶対的価値観を、剥き出しにしたい。

 

昂ることも最近はなくなった。

気持ちよく、寝れそう。

2/25 実現性と地方の出番、動画であそぼ

先月お話を頂いたものを、今月になってどのように進んだかということを通して、実現性について考えてみた。

 

結論から言えば、

 

・情熱(持続性)

・スピード感(非完璧主義)

・マネタイズ

 

の3点をクリアすることで実現性を高めることになると分かった。

 

正直書店のビジネス本から三冊取れば似たようなことは書いてあると思うので、自分の考えたいこと、マネタイズのみ考える。

 

マネタイズに対する責任感が強いものほど、

仕事は上手くいってる。

(実現性って全部平凡なことしかない気がする)

また、マネタイズを考えた人ほど、

望み以上のもの、誰よりも刺激的で独創的な機会を手に入れている。かつ、周囲の人間も、面白さで巻き込めているから、周りが幸せになっていると思う。

 

僕はまだマネタイズを良く分からない人だから、マネタイズについて経験を持つ人はそれだけで価値がある。以前お金がなければクラウドファンディングが選択肢の一つに入りはしたが、今はサブスクを選択肢として選ぶ時代なよかなと思う。

 

単発であればvimeoみたいな買い切りサービスがあるけど、プラットフォームとしてvimeoは魅力的でないし他のサービスも魅力的ではない。

 

サブスクとして、おそらく使いやすいのはニコニコとかなのか?と思う。生放送の枠で自分の番組流せばいいだけだし(コメント機能なんて使わない)、見逃し配信もできるし、映像を用いたコミュニティに対してニコニコは強かった。YouTubeの時代、広告収入の時代になってからの動画時代でニコニコは低迷した。

 

僕自身は面白系動画を全くみないし、周りが始めても似たような企画しかやってないのをみて、かつ、自分の趣向を考えたとき、僕みたいな人間が1再生あたり0.1円レベルのサービスに参加することはその時点で敗北を意味する。

なので、単価を上げる方がいいのだ。そして、楽しんでもらえる層に届ければいい。

 

自分の生活がこれまで以上に豊かになることを考えれば、月5万円増えるだけでもかなりありがたいのだ。1万円でも。3000円でも。

 

動画を用いること、自分の個性を生かすこと、

時代を知ること、自分が見たいものを作ること。

 

そろそろ、地方の出番じゃないのかな?と思う。もう時代は速くてどうぜ一瞬で飽和するから、その時まで遊ぼうよ。

2/24 閃光少女と漫⭐︎画太郎と江頭2:50

飯食って仕事して、寝ようとしてる。

 

最近やたらめったら眠いのは、

脳味噌を使いすぎてるのだとしたら

自己満足感が過剰になるので至極最高だ。

 

まぁ、東京事変の閃光少女の感動を

学問的に説明できそうな気がしてきたので

あながち間違いではないだろう。

 

しかし、映像が学問的に解説できても

感動の程度が違う人たちには

その科学的な説明は空回りするのだ…。

自分が楽しいからいいのだけど。

 

漫⭐︎画太郎も、楽しくてああいう漫画を書いているのだろうか。私は彼を窓際族の狂人と呼んでいるのだが、彼は何度も作中で飛び降りて自殺しては同じ漫画を繰り返しつつもどこか微妙な変化を遂げてまた死ぬ。

彼の青春を詳らかに説明しようとしてもそれは恥さらしである。二日酔いの人間の心理は、取るに足らない。

 

あの凄くないと思わせる凄さはなんなのだろう?

己のあの一面に、傑作の足音が鳴り響くのを確信しているのだろうか?それとも生き続けるための手段としてただ漫画を選んでいるだけなのだろうか?

 

漫⭐︎画太郎の変わらない画風も、

江頭2:50が人々(主にイケてない人たち)の心に安らぎを与えるあの芸風の共通点は、全く何もなさ。何もないが、劇的な反応が心に生まれている。

 

それが、心に染み入るのはなぜ?

3.11後の、「いつもの何気ない生活」を今でも思い出すのは何故?

 

決して凄くない凄さが、人の心を立体的にするのであれば、世間が騒ぐ凄さとは単なる「表面上」での出来事なのである。

 

おめでたカップルは倫理を優しく撫で、

不倫は倫理を逆撫でる。

 

立体的な凄さは、普遍的な真理。

普遍的な真理は、決して倫理ではない。

倫理とは程遠い代物が真実というのだから、

今日も人間は仕方なく真実に胸を痛める、らしい。

 

2/23 食事会と前例なき未来

ゲームはゲームオーバーが嫌いで、ゲームクリアが苦手。ゲームオーバーに至る過程を評価して欲しいし、終わらない物語が良い。死ぬ時以外は自分の判断でケリをつけることしかないのだし。あと、現実世界に還元されないのは、なんだか納得いかない。

 

今日の夕飯は、下町のお世話になっている方のおうちにお邪魔をして、食事をした。何もないところに生まれた僕は、いくら高齢化社会と言われても、下町の生活が好きで気に入っている。

 

その方々は、歳は自分の親と同じくらいだ。

食事と酒が旨いだけでも最高だが、話に中身がないという素晴らしさが、この食事会にはある。全く、中身がない素晴らしさは、僕の人生を豊かにしてくれる。何か意味があり続ける日々など窮屈でたまらない。

話に全く意味のない人付き合いが、好みだ。

そこには意味がないから良い。死ぬまで意味がなくてもいい。死後、周りの人間が勝手に「千葉さんがあんなに偉大な作家になったかを知っているか?」と我が物顔で、下町の食事会について語ればそれでいい。

 

冒険の日々は、結果を求めるが、結果が全てではなかろう。魔王を倒すことはもちろん、しかし出会う人々の時間を大切に過ごさずして、本当の人間らしさなど生まれるのだろうか?

 

思想偏重、理論偏重、どんなに足掻いたって人間は不合理でしょう。

 

もしも僕が、ドラゴンクエストのような物語を作るのだとしたら、夜、みんなで飯を囲む時間を書きたいのだ。読者に、美味そうに思わせたいし、一人じゃない食事の時間があるから生まれる情緒を伝えたいと思う。

 

映画になるのだとしたら、行間になってしまうかもしれないこの日の出来事が、半信半疑の自分を生み出し、更には信じで踏み出せる自分をも生み出すのである。

 

ようこそ、前例なき未来へ。