叙々苑 2023/05/03
とある平日の木曜日に社員(+社員の奥さん)と叙々苑に行った。ノリだった。
今日は5000円くらいのお店に行こうかと話してて、叙々苑のホームパージを見たら7000円のメニューがあった。行けるじゃん、って思って叙々苑に行った。俺はテキトーなパーカーを着てた。営業の2人はスーツだった。編集は、確か家に帰って服を着替え直してた。
店の前で待ち合わせた。歳上の営業の奥さんは、ちゃんとおめかししてきた。なんでいきなり叙々苑なの?って楽しそうに話してた。
店に入る。俺は、いつもより肩甲骨をくっと締めて胸を張った。そして先頭を切って歩いてた。席を案内される。
窓の外には、夜景が映し出されていた。
街を走る車、ビルの光、
働く人たちの面影が結ばれていた。
俺はえらく感動して、じっと見てた。
和装の店員が、メニューをくれる。
パラパラと開いてみたが、
7000円のメニューなんてどこにもなかった。
「あれは恐らく新規開業店のセールですよ」と営業の2人から言われた。
まじかぁ、って思ったし口にした。単品ずつ頼もうとしたがそれは貧乏臭くて嫌だった。
だから、12000円の懐石コースにした。
まず最初のお通しが美味かったし、なんなら肉よりこっちの方が美味かった想い出がある。みんなも満足したみたいで、笑顔になってた。
俺は同じものを同じ感情で楽しんでる人たちの顔を見て、会社を作ってよかったなとこの時初めて心の底から思った。
肉を食べ、夜景を見て、叙々苑の素晴らしさを社員と語り合った。俺は、叙々苑は一町内に一つはあるべきな気がしたし、日本国民一人一人に叙々苑チケットを渡した方が良いと思った。馬鹿げていると思うが、俺は本気でそう思った。
でも、1人で食うと別に美味しくないのかもしれない。好きな人、愛する人、大切な人、そういう人たちと一緒にいくから叙々苑は美味しく食べられるのかもしれない。
俺は、叙々苑の懐石コースのメニューを折り畳んで持って帰った。辛い時苦しい時、叙々苑の懐石コースのメニューを見て元気を出そうと思った。
店を出た後、みんな誇らしげな顔をしていた。経営者にとって大事なことは、きっと社員を叙々苑に連れていくことなのだ思う。
圧倒的な偏見を胸に、俺は萬代橋を渡った。
P.S.
ヴィーガンの人が社員になったらどうしよ。
2023/05/03 ブログの再開
ブログを再開する。
1,再開への趣旨は以下の通り。
⑴身近な人への生存報告
⑵これから経営者を目指す人か、
会社を自己実現の手段として考えてる人への発進。過程は結論と同じかそれ以上の価値を持つと思うので、ブログに綴る。
2,再開の理由
・日々の業務において感じたことを言葉にしたくなった。
・言葉に残すことで、自分の思考プロセスを、他の情報と照らし合わせてそのクセ及び強みを確認しやすくする。
・また、自分の行動と理想のズレを確認するにも役立つだろう。
3,過去との違い
・昔は難しい自分の感情を詩的表現を用いて言語化し、鬱病的精神を無意識に改善しようとした。現在は、ブログ再開前と比べ、動揺のない生活を送っている。
・社会的貢献度の大幅な増加による自己肯定感の向上。
・過去のブログ記事を抹消しないこと。自分の見たくもない過去も受け止めるか酒の肴にすることにした。
4,ブログ記事全てに言えること
※すべては個人の見解です
12/7 ふるさとで仕事をすること
今、仙台から新潟の家へと向かうバスに乗っています。
約3ヶ月、仙台で仕事したり新潟で仕事したりの往復生活をしていたわけですが、ふるさとは素晴らしいものでした、というのが総括です。
地元で仕事をするに、
少年のような意地を小っ恥ずかしく感じたり、
人としての在り方を常に自分に問いて生きてきたりしたわけです。
僕のように地元の知人たちとの交友関係が薄くなってしまった人間にとって、
ふるさとにおいて人の繋がりを感じられることは、それ自体が幸せなことであり、
疲労に包まれた幸福感にゆっくりと浸りたい気分で今はいます。
思えば今回の仕事は、
今年の一月にノリでクライアントの方のドキュメンタリー撮影するという青年の浅ましさからはじまりました。それからコロナが始まり、撮影は中断されましたが、夏には別件で仕事を頼まれました。
動画製作のやり方についてお伝えするというお仕事でしたが、やっぱり動画製作を行うのは難しいものです。(私の拙さが一番の問題でしょうが)
趣味であれば簡潔でいられるものが、
仕事になれば考慮する部分が増えるため、
作業の手が止まるところが多いですが、
それでも「近道はない」というのが、
最終的な実感です。
(だからこそ工夫が生まれるという逆説です)
今回の仕事は、自分が想定すらしてなかった一面に光を当てて頂けました。
それは、「僕にはこういう仕事ができるんだ(能力があるんだ)」というような向上心ではなく、「一隅を照らす」というような意味です。勿論、僕の影を。
なぜそうなったのかは、機会があれば話します。(長くなりすぎるんです)
ぶら下がった目の前の人参を追いかける自分であれば、こうした人生観を得られるなんてなかったな。
芸術家に憧れる、近代的な教育を受けた現代の青年であれば卑下しそうな「感情」でしょうが(自嘲を込めてます)、日々の生活を楽しみたいのがこれからの僕のこれからの流儀。
それは仕事も込みです。
仙台で頂いた仕事は、
そうした「有難い」仕事でした。
そういう、そういう深さ。
新潟駅に煌めく街灯の光を、
待ち遠しく今は感じる。
この帰り道は、きっと他所れ流れたから感じられた、人生の味わいなのです。
本当に、ありがとうございました。
ふるさと、宮城の皆様。
オフィスを構えた理由
事務所を開くことがきっかけで再開したブログなので、
なぜ事務所を構えたかについて書きます。
そもそものキッカケは、知人の方から「一緒に事務所を借りない?」と誘われたことです。
開業以来、常に資金不足に悩まされていた僕としては考えたことすらありませんでした。ですが、「やりたいな」と思いました。
事務所を構えるメリットはたくさんあると思います。
打ち合わせ場所だったり、信用だったり…。
ただ思い起こせば、そういった点が自分に本当に必要か?
という疑問は湧いて降ったりします。
特にこのコロナ禍のなかで、
「場所」というのは見直されている点ですしね。
それに、フリーランスである以上、
自宅でできない仕事でもないわけです。
だから、ノマドワーカーという人がいるわけですし。
ですが、面白そうなのでやることにしました。
自分が知らないことって、好奇心が動くしね。
はじめてみて感じたのは、
当然だけど予想以上にお金がかかるということ。
知人の方のご趣味である、
ブロカント(フランスの古民家的)な雰囲気にするべく、
自分のデスクもそうしたものを用意しています。
でも、こんな雰囲気のオフィスはなかなかないと思います。
ブロカントが好きな人、特に女性は好きな空間だと思います。
服装もオフィスに合うものを用意するのだって楽しくて、
オフィスが良い雰囲気なので気持ちよくオシャレがしたくなり、
おかげで毎朝の服選びが楽しいね。
バルミューダのトースターがあるので、
ぜひ、美味しいパンを持って遊びに来てほしいな、と思います。
本来ならば、自宅をもっと充実させた方がいいのだろうけど、
僕が今借りている家は破格の価格であるが陽が当たらない。
一方オフィスがある場所は、
銀行やお店が多く、仕事するには良い場所だったりする。
こうしたリラックスできる環境なら、
作るものだっていいものになる、そう信じています。
心の健康にもいいので。
今回は、こんな感じになります。
是非、お時間あるときにも遊びに来てください。
11/19 事務所はじめました
1,事務所を開いたので心が変わり、
またブログを始めることにしました。
2,ブログは雑文形式で書いていきます。
日常を垂れ流す感じです。
3,書く目的
①コロナの中で、事務所を始めることへの問いかけを文章で綴りたくて。
②クリエイターの日常や業務上における考え方を書き連ねる
③将来クリエイターを目指す人、クリエイターと仕事する人、同業者に向けたもの
④学生時代から就職しないでフリーランスしたい人向け
⑤地方でクリエイターを目指す人向け
こういうのを一言で言うと、
職業と都市生活でのワークアズライフを書いていきます。
業務における話を書くので、
たぶん他の業者の方は新鮮で楽しめると思います。
4,緩いです(念押し)
それでは、改めてよろしくお願いします。
7/17 普通とR.I.P
22時を過ぎた頃、仕事の連絡が来た。
発注者からのあまりに雑な指示書に、何も感じなかった。どこを修正したらいいか分からない内容だった。解釈が複数取れる内容だった。
元請けの方が、別途分かりやすく指示書を作ってくれていた。
発注者は社会的な立場があるとこだが、
その内容に子供っぽい自信を感じた。
他者の目線が、ない。
字と内容に納得した。人柄が出ていた。
虚しさを通り越して、悲しさが湧く。
そして、なんとなく思った。
これが、普通なんだなと。
そう思うと、吐き出したい言葉だけがまとまり感情は沈下していく気がした。
悪とか以上に、無理。
7/6 時系列の列挙
RYUTistのマネージャーさんと話してもそうだし、リプロネクストの河合さんと話してもそうだったけど、芸術を志した時期は同時並行してやりまくったことが多く、話がぐちゃぐちゃするので勝手に頭の中で時系列を編集して今の自分を紹介するモードになる。
でもまあ、正直に時系列を列挙してみたら、
製作会社からのプロデューサーさんから「お前一貫性ないな」と言われた。その通りだ。
でも他の人から見た一貫性なんてなくていいんだなとその時思った。
ある学生の行動も一貫性ないとは思ったが、同時に「行動力がある人はそういうものだ」と感じていた。
他の人の行動は、俺の中で理解できないだけで、
この小さな脳味噌で、肩書きのみで理解しようとする姿勢なんてもう必要なく、その行動が語るものを見ればいい。わざわざ格付ける必要なぞないことで。それはただのステレオタイプ(前時代的)。
美学があるやつはうまくいくんだわ、
そうして映画の脚本のような動きはしない、
もっともっと馬鹿げたものになるし、
よく分からない。
この間会った女の子は、
シティもアーバンも感じられず、
明らかな田園気質ではあったものの、
身体言語からは落語を感じた。
もはや、カテゴリーやジャンルという
言葉にされる統一感など存在しない。
素人意見で申し訳ないが、
シン・ゴジラだってそうだろう。
村上春樹的比喩はさ、
ジャンルを飛躍する力を指すのではないかな。
要は、
肩書よりも、何がしたいか。