1/29 カテゴリー外の人と、営業

今日、これまでプライベートでお世話になった方を、改めて社会人としての立場から捉えたく、営業0.5割で話を聞きに行った。

 

話してものの数分で、生きている世界が違うと思った。その方は、恐らく名士と言われる家系だし、勤めていた場所も誰もが聞いたことのある一流企業だ。そこには、現実味があった。対比すれば、僕は、妄想に浮ついた人間だ。

 

けれど、僕は、本当に現実的な人の話はめちゃくちゃ面白いと思える。現実的なスタンスは取ろうと思って取れるものではなく、取っていると自認している人の多くはその自認の妄想に取り憑かれふわふわしている。だから、その方の現実味は、僕にとって新しい社会観だった。

 

だから、無理に波長を合わせないで済んだ。

 

そして、その方と波長を合わせるには、

同じ体験とビジョンの共有しかあり得ない。

もはや、当然のことだ。

いつもより、距離が遠いだけだ。

 

芸術作品が時代を超えるのは政治家や大衆が好む固定観念ないしは伝統的なカテゴライズではなく、普遍的と言われるものー精神性のカテゴライズーで括られるだからだとおもう。

 

そう、芸術は時代ー100年以上なんて当たり前!ーさえ超えるのだ。たった20年の差なんて大したことないと思えないか?

 

波長合わせは難しいが、僕が心を開き、相手の方も開いてくれているのであれば、時間の問題だと思うのです。焦らず急がず着実に生きていけばしっかり手に入るもの。

 

営業は、

不人気の職業だと聞く。

僕は、知らない世界を知るための格好の文句として、営業と映画ほど適しているものはないと思っている。

 

今日は良い日だ。

 

やはり僕はお高い芸術家ー鼻高な女優や白樺派のような人たちーではなく、東北の田舎の人間の血を引く、ただの庶民だ。都市を知らず、都市の現実よりも都市のつく嘘を本当に信じて生きてきた。そしてこれからも都市のつく嘘と向き合っていくのだろう。

 

傲慢で、欲深で、頑固な庶民でいられて満足です。おやすみなさい。