9/3 「痛み」と「忘却」のいたちごっこ、その永遠性

人間の記憶力は、その個体の欲望により照射範囲を確定すると思う。俺が科学や数学の公式を覚えられないことが正にそれだ。

 

公害も戦争も原爆も原発も、近代的人災によるものを人は覚えていけるのだろうか。努力や善処する姿勢を批判する気は一切なく、ただ単に人間の性質を考えているだけなのだが、気になるのだ。

 

10年後にはこの国は戦争をしていて、原発も「想定外」のうちにまた変なことになるかもしれない。ニュースは危機感や緊張感を煽るのは得意だけど、それが何に対する感情なのかは付け焼き刃だから、フォーマット通りのニュースが流れるだけなのだと思う。見ているときは不安になるけど、寝てしまえばいつも通りの朝が来る人たちにとって、ニュースは刺激をもたらす役割しかないんだろう。

 

政治家がもたらす「痛み」も分かる人には分かるのかもしれないが大半の人は、僕の凡庸な想像力では及ばない理由で考えなくなり、また日常へと戻るのかもしれない。

 

悲観主義?ニヒリスト? 

そうかもしれないが、

どうしても実態が見つからないのだ。

そもそも実態なぞないのかもしれない。

アクセルを踏み続けながら、

ブレーキを踏んでいく感じ。

 

こうして、結論の明示されない凡庸な無編集テキストが生まれた。

 

当事者じゃないから、情報も実感も乏しい。

実感に乏しくても、選挙で人を選ばないといけない。

頭で考えた意見で、仕方なく、進めていくだけなんだろうか。