8/10 ー『罪と罰』と『天気の子』ー

今日、新海誠監督が舞台挨拶に来るということでワクワクして劇場に向かった。質問したいなと思い色々考えていったがどれも聞く必要のなさそうな質問だった。今思えば、その質問は全部、あなたの作品が大好きです、という意味にしかならないのだ。だからこれから語る『天気の子』の理論は独論だし、難しい言葉は使わないし、社会的なメッセージよりも、「愛してる」気持ちを絶対的に優先したい。

 

 

 

 

『天気の子』は、徐々におかしくなりつつあった東京と、それを救うための人柱となった少女、そして少女に力の行使を求めた少年の話だ。

 

俺が思うに、「決定的」というのがポイントなんだと思う。それまでも何かしらの兆候があった、というニュアンスが感じられる。

 

どんな事件でも突然起きたように感じるけど、当事者達による事件の下ごしらえは存在する。

それは組織内でも同じだし、政治だって同じだ。事件は、突然ではなくゆっくりと忍び寄ってくる。そして一度起きてしまえば、景色をガラリと変えてしまう。今後のカジノ法案も、格差もまだ決定的ではないけど、「決定的」にするために動いている人たちがたくさんいる。

 

君の名は。』が天災による話だったのに対し、『天気の子』は人災の話だ。

隕石は予期できない。人災は、予期できる。ただしどちらも止められない。

 

 

主人公にとって大事なのは、自由都市東京ではなくヒロインだった。東京が人災にまみれたからこそヒロインと再会できた、ヒロインと再会したことで人災が起きた。

 

ヒロインさえ人柱になっていれば人災に合わずにすんだのに、という意見だった成立する。

(これが須賀の考えだ)

 

しかしエピローグで主人公は自分が犯してしまった人災に対して、「これは僕が選んだんだ」と納得しヒロインとの再会を喜ぶ。

 

須賀の視点(第三者)から見ればだれか人柱になって済むのだから、それが一番望ましい。

 

主人公目線から見たら、どうだろう。

「好きな人がいなくなってしまった晴れの東京」と、「好きな人がいる水浸しの東京」。

 

 

 

罪と罰』で、ラスコーリニコフは自分なりの正義を執行し殺人の罪を負うことで、愛について理解することができた。本作の主人公も、自分なりの正義を執行した話である。

 

きっと納得しづらいのは、正義執行の影響力及び規模感にあると思う。俺なりの解釈で言えば、帝政などのように庶民が参政権がない時代は個人の影響力など無に等しいのかもしれないが、民主主義は一票で勝負が決まることがある。それによって、政治は変わる。

また今年の4月には爆薬を作る高校生もいたし、もっと言えばインターネットで何でも繋がっている時代、一人の権力なき人間でも、歴史的には考えられなかった規模の事件を起こせる。北欧の国でも一人の学生が起こした環境に対する運動が世界中で広がり、どんどん新しい動きを見せている。

 

そういう時代背景も反映している。

 

 

『天気の子』と『罪と罰』。

愛は、横暴かもしれないし、独善的かもしれない。だから決して良い話ではない、だから好きだ。