7/15 空白の「浮かばれなさ」

空白は寂しがり屋だから、埋められたがってる。入居人を募集している部屋も、テナント募集中のスペースも。

 

1Q84』の作中で語られるチェーホフの「チェーホフがこう言っている。…物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」という言葉がある。

 

埋められなかった空白は、浮かばれるのだろうか?そんな事は決してない…。

 

「語り手より愛しく語られ、唐突な死で片付けれた人たちを、どう想えばいいのか?」

 

これが、本作を読み終えた俺の最終的な結論であり問いだ。

 

情報過多な社会でも、空白は生まれる。生まれた空白は、大した調べもされず勝手に物語られる。空白のそばに居た人たちはいわれもない物語は受け入れられないが、報道されてしまった物語が真実となり多数となる。空白が起きる前から、報じられていた物語であったかのように。

 

現実の空白にも愛しくなれないのだろうか。

 

近々行われる参議院選挙を考えると無謀な挑戦に思える。たとえ候補者が立派だとしてもその情報にアクセスするのは時間がかかるし、お金が絡んでいるから編集されたものも気安く信用できない。結局は1分程度で観れるような媒体に頼り、そこで勝手に物語を作るか、物語を作ることに飽きれば印象で決めるだけだ。

 

今の俺には、選挙の空白を愛しく想うことなんてできない。近くの人の空白を愛しく想い、自分の物語として受け入れ、側にいるのが一番人間らしい。

 

1Q84』で首都高の渋滞の中、車を乗り換えた名もなき人たちのように。『廻るピングドラム』で電車を乗り換えた主人公たちのように。

 

ビッグ・ブラザーが語る物語とも、ただのピープルが語る物語とも交わり、己の物語を組み替えていく先に、ハッピーエンドはあるのだろうか。それとも空虚な妄想なのだろうか。