7/14 物語論、現実を翔ぶ

パラダイムは、残酷とか非道とか善悪を論じるよりも上位に存在できる。それが、倫理より後に生まれたものであるにもかかわらず。

 

パラダイムは、人間が意識せずとも人生より上位に存在し、神は人間に物語を歩ませようとせる。

 

パラダイムは、「第一幕」「第二幕」「第三幕」から成り立ち、第一幕の始まりは第一の事件が生じる(生じた)ことになる。次に第二幕に移行する直前の点をPP1としたとき、これは第二の事件と呼ぶことができる。実質的な意味での物語は、第二幕からの体験を指すのだ。(そして第三幕に移行するための点をPP2と呼ぶ)

 

第一の事件とは、人間にとっては遠い昔の出来事かもしれないし、数分前に起きた出来事かもしれない。重要なのは、その事件が起きた原因ではなく、結果なのだ。これは、第二の事件にも言える。原因は、一般論しか産まず、それでは面白くないから、結果に注目するのだ。

 

しかし、第二の事件が起きればそれでいいというわけではない。その結果を、旅させなければならない(たとえば事件は警察や探偵と恋愛するクセがある)

アテは必要だ。アテのない旅は旅とは言わず、放浪と言う。だから、アテを選ぶ。未来は分からないが、未来を導くためのアテはある。(未来とはより良い変化を指す)

 

これは、あくまでも物語論である。不可思議か点においては、異論を認める。しかし予感が現実的でなければならないというのは、暴力的な論法であり、意気地なしの理屈だ。そういう人生には興味がない。