6/15 恐怖漫画

10:00 起床 

10:30 朝食

10:45 脚本作り

11:00 「ウインドアイ」

11:15『ホモ・デウス

ホモ・サピエンスの他の種族と異なる点は「 無数の見知らぬ相手と非常に柔軟な形で協力できる」ことにある

 

服装などの視覚的目印を用いて、同一の物語を共有しようとするのはその協力関係が故なのだろう

 

物語の共有とは、共同主観と言える

共同主観とは、主観(1人の人間の考え)、客観(重力など、人が信じようが信じまいが存在するもの)と異なり、複数の人間が虚構を信じることを指す

 

日本人であれば黒髪スーツは真面目で大人しそうな感じがするが、金髪短パンは遊んでる感じがするというようなことであろう

 

生物学はゲノム、DNAの鎖で人間の現象を説明しようとする。しかし、なぜ北朝鮮と韓国であそこまで考え方が違うのかは生物学では説明が難しい

 

対して人文科学は、虚構に注目する。ある特定の集団が、いったいどんな共同主観を持ち、どんな物語を信じているかについて注視する

 

例えば、資本主義社会においてはお金があれば物が買えないことからの自由を手にすることができるという物語がある

これは、貨幣経済が成立していない地域においては不可思議なことだし、その地域の人からしたら「紙」もしくは「数字」で取引が成立しているなんて驚くか、もしくはキョトンとしてしまうだろう

 

多くの人が信じている物語はなにか?

それは何故信じられるのか?

認識はどうして食い違うのか?

感情も、物語から生まれるのだろうか?

 

14:00 岡田斗司夫の「風立ちぬ」講義を聞きながら、演技について考えてみる

どれだけ自分を出すか、じゃなくてどれだけ演じるか

独りよがりの興奮だけじゃ何も表現はできないのだろう

 

14:20 仕事をする

明るくてハツラツとした女の子を探すことになった

 

14:30 「ウインドアイ」『陰気な鏡』

分かるようで分からない物語もしくは出来事に対して僕たちはどう接すれば正解に辿り着けるのだろう?

 

それは疑問に思った点を逐一書き出し、一つ一つを検証していくことなのだろうか?

膨大な時間のかかる行為に、やがて虚しくなることもないだろうか?

仕事か、趣味でなければ決してできないのか?

 

この『陰気な鏡』は、妹と犬の突然の失踪から物語が幕開けする。半日後には犬が見つかるが、妹は見つからず、保安官に頼るも彼らは仕事をせず(放棄したのか?)語り手である主人公が捜索を始める

 

やがて何か意味ありげな無人の館に入り、一度主人公とあったことがある人と出くわす

 

本作は物語が予想とは異なる着地点に落ち着き、不安定な気分にされたまま幕を閉じる

 

一連の主人公の行動をどこか意味づけるのは、夢と謎の男の物語である

 

記述されている夢の内容は2つある

「彼にはそもそも妹が居ない」(序盤)

「妹がいて、付いてきている」(館から出た後)

 

謎の男は、物語を始める前に

「物語をひとつ聞かせてやろう」 

「というか、二つの物語かな。あるいは、違う二つの結末を持つひとつの物語かもしれんが」

と前置きする

 

物語を途中まで話した上で

「ひとつのものが何度も同じように語られるからといって、実際そういうふうに起きたってことにはならんぞ」

「けれども、そういうふうに起きなかったということにもならない」

と曖昧なことばかり話す

 

そして物語自体が「あと二つ語り方がある」とし、「私たちは本当に、ほかのみんなが語っている物語で満足するような人間か?」

と問いただすのだ

 

謎の男が話す物語自体も、結末も曖昧だ

 

本作品の軸も、この謎の男との関わりによって大幅に書き換えられている

 

おそらくほぼ全編通して、冒頭の状況説明が、主人公のパーソナリティを示すことだけが正しく(もしくは主人公が正しいと思っているだけ)途中からは異なる話を展開しているのではないのか?

 

ストーリーラインの変更がひとつの作品の中で意図的に行われているのは何故か?

その演出は人心にどんな影響を与えるのか?

 

考えてみたい

 

15:10 『海獣の子供』最終巻を読む

作中で良く使われている「る」とは?

「ル」や「ラ」ではなく、なぜ「る」なのか?

大和言葉の音の響きに由来しているのだろうか?

 

別な話だけど、本作品ですごい好きな言葉が見つかった

それはある島で見かけた海の謎を解き明かそうとしても大学の文献には載っておらず、フィールドワークのため1年大学を休学した時に出した人物の、

「毎日の生活の中で体で海と語り合うのが、海を知る一番の方法なんじゃないかって。」

という言葉だ

 

僕が最近ずっと考えていたことが、一連の言葉になった

 

もうひとつ、言葉よりも概念的な意味で、すきになったのは、

「人間は栄養になったのか?」という言葉が、大らかで安心感がある

 

あとは、生と死がまるでコインの表裏の関係で語られているのに、少しセンセーショナルになった

 

16:00 知り合いの写真展「性」に行く

自分の同世代の考えはとても刺激的であった

 

18:00 夕食 パスタ

 

18:30 『約束のネバーランド』を見た

オープニングの少年たちのシーンで大体涙腺が緩まる

進撃の巨人もそうだけど、怪物相手に複数人で挑むのが最近のトレンド

 

19:40 楳図かずお『洗礼』が届いた

脳外科手術のシーンなど腹から声を出して笑った

ホラー映画を作る際、このニュアンスがとても参考になる

実際恐怖体験だもんね

 

ラストに関しては第1巻の巻末の解説を師匠の手塚さんが手がけていたこともあり想像できてしまったが、それも俺の人生の付録みたいなもので、猟奇的な面白さがあった

 

24:00 『海獣の子供』見てからデカい海老が食べたくなる

そういうわけで調べてみると新潟は海老が有名な件であるらしい

いや観光困ってるならそれを押し出せよ

(なお新潟の海老はデカくはない)