6/14 情報量をもっと増やしたい日々
08:00 起床 見事な早起き
08:15 漫画『カストラチュラ』を読む
現在、貴族文化は失われつつと思ったが、おそらく六本木ヒルズや軽井沢あたりも貴族文化な気がした
王侯貴族の文化は庶民には到底理解できなく嫌悪感をやたらと感じるものであるが、そうした点を超えた先に一般的な倫理観で図らず、大局的視野でしか身につかない価値観があるのかもしれない
三国志ではよく万単位で人が死ぬ
例えば自分が曹操の立場の人間であればその罪の意識に心が壊れてしまうだろう
しかし曹操にとって兵など己の野望の礎にしか過ぎない
人間の歴史は、そういう非人間性によって紡がれてきたものだ(当然賛同するわけではないし、崇高な殉教者にも私はなれない)
そういうことでしか歴史は変えられないのか?人間は変われないのか?
「理性」とは誰でも言えるが、その具体的提案を考えるのが、今後の人類の課題なのだと思う
優れた倫理観と独自の価値観を養いものだ
08:30 『ホモ・デウス』を読む
なぜ私はこの本を読むのか?その問いは直感としか言いようがないが、自分の興味を分解すれば、人間というものへの関心は強かったと思う
ゴーギャンが言う、
『我々はどこから来たのか
我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
という問いは、自分自身納得がいく
それは引きこもりだから感じる存在感のなさであり、無力からくるニヒリズムがゆえでもあり、これらアイデンティティーに由来する出来事でもあった
今はそうした欲動を抑え、好奇心を持って感じる
簡潔な結論だが、自ら「神話」を作り、その世界観、倫理観に従い理想を実現するしかないのだ
自己啓発的に言えば、自分の生きる意味は自分で決めるということだが、ただの快楽主義は破滅への序曲としかならない
一時の性行為よりも、熱い日常の方が俺はタフになれるし自分を愛せる
「一時の感情」より傍観者たる自意識から生まれる理想を求めたい
09:00 朝食
10:00 脚本を書く
13:00 ブログを加筆する
13:20 昼食
13:40 アニメ『さらざんまい』を観る
BL路線の徹底と、敵役のカタルシスを味わせる展開そして最終章への展開など見事
14:00 脚本を書く
パラダイムを守ること、プロットポイントをずらさないことなど、なるほど、思い付きでぶらしつづけると自分に自信がなくなるのだと思った
続けるということはそれだけで困難だ
続けるのも技術がいる
それは才能よりは根気の話だろう
本当、術を学んでよかったと思う
専門職であればあるほど、
知性と体力を使う仕事ほど、
術がなくてはならない
やる気だけではどうにもならない
しっかりと肌身に染み込ませなくてはならない
そのためには、師となるべき存在もしくは人と触れ合うこと
改めてその重要性を知る
そしてそこには、年齢差など関係なくありたい
歳の差など関係なしに自分より優れた心から学ばなければならない
人を偉いなどと褒められる存在ではない
ましてや人の判断できる人間ではない
傲慢さにより失われる謙虚さの質・量は
数値化できるものでなければ
実感できるものでもない
周りに流されるな
周囲という自分を理解出来ず否定するものから身を翻し、信心によって突破せよ
勝ってどうする
負けなければそれでいい
傍観者たる自意識を、強く保ち、身体に鞭打て
17:30 大局的な視点を持ちたい
例えば、僕は①新潟にいて、②20代で、③フリーで働いていて、④映画祭で賞を取ってたりはするのだけど、これだけでは飽和した人間関係の中で突出した存在になれるわけはなく、
どこまでも機微な比較のもとに晒される
なので、出来ること、やれることを増やし、
もっと違う局面に立ちたいのだ
それは社会的な立場で言えば、
映画監督である
ここでいう「映画監督」というのは、
世界的な人物であるという期待感を寄せられる人間のことだ
それは世界レベルとはカンヌやヴェネツィア、ベルリンの最高賞を授賞することにある
(最高でなければいけない)
権威的な話ではない
きっと、黒澤明や溝口健二、大島渚など世界と戦い栄光を手にしたことで日本人が勇気付けられた時代があるのだ
だから、尊敬の念を込めて、人は「監督」と言うのだ
この国では、「監督」とは名誉職なのだろう
日本人が求めている映画は、
勇気づけるもの、それが王道なのである
(軍国主義時代、敗戦、人種差別などが映画にもたらした影響は相当な色の濃さだろう)
日本映画とは?その核にある哲学は?
それは俺をどうしてくれるのか?
知りたい哲学が日本映画にある
17:40 『ホモ・デウス』を読む
農耕社会以後、人間は神という存在を作り出したことで自分たちの種族が動物達より優位であるという考えを作り出した
その背景にあるのは、動物が脅威ではないからであろうが、それでは人工知能が発達し人間よりも優れた場合、人間が動物たちにしてきたことのように、人工知能が人間に好き勝手するのは論理的には正しいのか?(屠殺、遺伝子組み換え、人工授精など)
この考えがおかしい、というのも当然一理あるのだが相対的に見ると「おかしい」と反応するのは人間史上主義による考えである
これを裏付けるのが、狩猟採取民族のアニミズム(精霊信仰)である
農耕民と違って彼らは、他の動物を高く敬うことをしており、蛇などの生物を神格化していた
(ここいらは日本人のカミにも良く残っているのでしっくりくる)
とのように、人工知能以降の世界では人間はその人間史上主義と超人間的存在にどう折り合いをつけるのかということが気になった
18:30 夕飯
19:00 アニメ『ワンパンマン』を観る
19:30 アニメ『約束のネバーランド』第1話を観る
これは展開が楽しみ
20:00 「ウインドアイ」の『スレイデン・スーツ』を読んだ
20:20 政治思想について気になり始めたの調べてみる
キッカケはポピュリズムについての懐疑心だ
近頃とある政治家が気になっているのだが、その人の政策は庶民人気が高く、俺の心に響いたのに対し一度冷静に振り返り、そして考察したくなった
ポピュリズムは北大の遠藤教授によると、
「エリートではなく、民衆の意見や選好をもとに政治を行う考え方。」であるそうだ
「ポイントは、①民衆と②エリートを二つに分けて、善悪をつけるところ。つまり、①の民衆は『純粋で普通な人』、②のエリートは『得をしていて腐敗している人』と位置付ける」らしく、多数の人のためにならないという論理でエリートを批判するようだ
「ポピュリズムは何より、敵をつくるのが特徴」とし、矛先をエリートに向けるようだ
それで、ポピュリズムと対立する概念をリベラリズムで、これは「異なるものを平等に扱う」思想のようだ
今回はひとまず、このくらい
次はファシズムについて調べたい
引用サイトhttps://withnews.jp/article/f0170105001qq000000000000000W02k10101qq000014515A
20:30 『自由からの逃走』を読む
絆からの自由とは、
自由や個性を積極的に実現する可能性とは決してイコールにならない
「東京にいってビッグになる」といっても成功しないときは成功しないのと同じ理屈だろう
近代が人間を自由にして野放しにしすぎたことが反省点だとするならば、次は選択肢を多くの人へ与えなければならない
政治的に言えば「一人ひとりの力が発揮できる社会」といったところか
ただそれはどうも多くの人を零しがちになるというか、俺が新潟で感じた「場所づくり」とは方向性が全く違う
新潟で感じた場所作りは、経済的効果よりも社会資本としての役割が大きい
数値化も難しい目に見えない(見ようとしていないだけで、人の感情の動きはよくみえる)
場所づくりなどがもたらす新しい繋がりを人為的に整備することが、絆からの自由を終わらせ、「参加の自由」をもたらしてくれるのではないのかなと思う(参加する場がなければ参加はできず、繋がらない状況が続くので)
俺は「脱近代」なんて偉そうなことは分からないけど、現代は「繋がらなさ」が問題だと思う
21:10 「ウインドアイ」の『死の天使』を読む
今回はわかりやすかった(感じがある)
語り手は、おそらくキリスト教世界圏の神であろう
「神は死んだ」現代に作者は神を君臨させたのではなかろうか、個性が加速化し、強い繋がりを持てず孤独に悩んでいる現代人の、たった1人の看守として。
その叙述形式による語りは、冷静であるがどこか情緒を感じた
22:20 自分が人を強く妬んでしまうのは何故か考えた
事業という観点からみると、
①市場の確保
②独創性
③コンテンツの面白さ
によるものだ
加油、自分
22:25 最近あった出来事の中から、
「人に言われてあれこれ悩んでいる奴は中途半端だ」という結論を得る
スカッと生きろスカッと、ダサく生きるな、
「これでいいや」と努力を疎むな
23:00 『約束のネバーランド』をみる
ミステリー、SF、サスペンスの良さが絡まって面白い作品だ