7/1 いつでも死ねるという自然体
だらだら生きたくないから「いつ死んでもいい」という精神状態を作りたい。その精神状態に至るは、自分の人生に誇りを持つこと。偉そうな人間を相手にしないこと。出すぎた真似をしないこと。人に愛を注ぐこと。
遺書は書いた方が良いのだろうか。残す財産はない。大事にしたものはある。それを後世に残すのが、遺書の性格上、正しいと思う。
それでは何が遺書たりえる考えか?
あるとすれば、
「人間は99%どうにもできないことだらけで覆われているのだから、残りの1%は自由に生きていくのが良いと思う」ということだ。
残りの1%に関する解釈は様々だ。99%の不自由は相対的に見ることも自分の経験を絶対視することもできるが、フロイト的に過去に拘っても仕方なく、「宝物は宝物のまま古びていく」ので、深く考えなくていい。論理のための論理(不安になるための論理)になりがちだ。
しかし、こんな遺書を見て誰が喜ぶか?いや、誰も喜ばないだろう…。
であれば、「いつ死んでもいい」という精神に遺書は贅肉なのであると、完結づけられた。
しかしこの文章は個人の感覚であって反復性に値しない。
やはり実行のみであるか。
実行だけが未来を作るのか。
俺は自分の行動に対する果実に執着してるだけなのか。きっとそうだ。
煩悩の塊だ。この俗な根性は1日108回頭をぶん殴らなければ治らないのか?高尚に至りたい訳ではない、変人であり狂人、動物でありたいだけだ。ただそれだけなのにここまで難しいとは…。
立場を持つ方が難易度が低いし自分が倫理観的にも優れた人間に思える魔法もその椅子には掛かっているので、精神的にも楽だろう。
楽はつまらん。
いつでも死ねると念仏のように唱えてみるか。それもまたいい。