2/1 映像におけるパブリックとパーソナル[迷走録]

じぶんが今後つくりたい映像の方向性は、

パーソナリティを感じるものにあると思う。

 

企業であれ、個人であれ、外部の視点で切り取り、その人柄を映像から滲み出させることは、映画的な視点であるからやっていきたい。

(若干逸れるけど、映画館は、パーソナルなものがパブリシティを得るための装置だと思う)

 

やるからには、真逆の概念、パブリックを定義しないといけない。ここら辺はまだ曖昧だ。

しかしなぜだろう、私にとってYouTuberや自分の私生活を語るvloggerはパブリックな映像だと思っている…。きっと、それは彼ら彼女らが「(人の)好きなことで、生きていく」人間だと思っていることが根拠にはなっている。

どんな意見も、広告的なものであれば私はそれをパブリックなものとしか取れない…。

 

私が撮りたいのは、言葉ではなく行動とその結果だし、そこから予想できる未来や、思想だし、人との違いだったりする。具体例としては、物の食べ方、風呂の入り方、眠り方、セックスの仕方…。映像の目的から削除されるべきものは削除するとしても、そのパーソナルな部分を撮り、魅力に繋がるのが私の仕事、そんなふうに漠然と考えている。

 

一つの商品、料理、作品。無形である、売り方、まとめ方、ブランディング。どれも、一人ひとりの生きてきた人生から編み出された技だと思っている。そっちが興味ある。

 

正直、まとまらないが、私はパーソナリティなものを撮りたいし、その欲求により世間的に不適合な能力を身につけているし、竜となる鯉を応援できる。

 

YouTubeは十分装置だし、

口コミも装置だ。

 

これまでのビジネスの空気感では紹介する勇気が必要かもしれないが、「本当に良いから見てください!」と言える映像を作りたい。その映像を通して、それぞれの人が各々の人生を乗り越えるきっかけになってくれれば、とても嬉しい。