7/31 騎士ドン・キホーテと杯を
安くなれば良いというものでは全くない、
好きなバンドの音楽を他人と同じようにしか聞けないというのは不幸だ。
その点俺は友人のライブを撮影するというそこバンドのファンを圧倒できる幸福を胸の奥に沈めて生きている。
絵画も書道も食えないかもしれないが、
俺が気に入ったものであればそれは名匠など取るに足らぬ傑作となり、俺は自分の一生を殊勝にできる。
俺は、自分の体力が投じれる限りの金を注ぐだろう。それは他人が大したことがない金額であっても関係ないのである。人の宝物になんやかんやでケチをつけたがるのは人間の性質だ。構うのはバカの証拠だ。
これはトンチンカンな話であるとともに芸術は最高だということをただ言いたいだけのオタクが悦に浸っているだけの文章だ。そして俺は俺のために生きるのだ。
俺の生き方は画面の向こう側の彼女を求めるのと何も変わらないが、声高に叫ぶ評論家とは一線を画す。そしてそこに中道はない。
7/30 画面の中の恋人と裏切られる日々
リチャードリンクライダー監督の『ビフォア・サンセット』を観た。
この監督は、俺の氷った心を溶かしロマンス映画への情熱を再び蘇えらせてくれた。
思えば恋愛にまつわるフィクションほど男を裏切るものも早々ないとおもう。
あだち充に裏切られ、高橋留美子に裏切られ、押井守に裏切られ、『いちご100%』に裏切られ、『君のある街』に裏切られ、ギャルゲーに裏切られ、AVに裏切られるなど、人生は裏切りの連続だ。
傷つきたくなかっただけだと思う。
恋愛を描いている作品への嫌悪感は著しく、その都度何か探していたが、やはりロマンスほど信じるに相応しく人生を輝かせるものもないのではないか。
いや、そうなんだよね。本当その通り。
厨二病だったんだよな、って思う。
飛躍させて終わるけど、俺は新海誠を信じて生きることにした。
恋愛って切実なんだ、万事うまくいくわけあるかってんだ。
7/29 『イメージの本』、非難は喝采
映画界の異端児にして最高峰の監督、ゴダールの最新作『イメージの本』を観た。
クリントイーストウッドもそうだし、ケンローチも宮崎駿も、この世代の創作意欲と描いているものに恋い焦がれる。
『イメージの本』は、神の映画だと思った。それは90分近くの作品を全くと言っていいほど理解していないからに他ならない。いくつかの記号論的キーワードには触れられたけど、何をテーマとしているかなんて全然わかりやしなかった。ただ、眠りに落ちそうな瞬間に思いもよらぬフレーズが蘇ったので、これは第六感で観る映画なのかもしれない。
観終わった後、シネ・ウインド館長齋藤さんに「なにやったっていいんだね。そうゴダール先生が言っていたよ」と声をかけられ、自ら口にする以上の実感があった。
この作品に、
孤高の背中を見た。
世間は熱狂しない。ついていけない人間は置いてけぼりになる。ただ作品はある。人は死んでも作品は残る。歳を取っても作品は色褪せない。
非難は喝采だ。
分からないと思えば思うほど、作品が偉大となる。そういう作品を観た。
7/28 『わたしはダニエル・ブレイク』
サンデクジュペリ『戦う操縦士』で、彼は自由を「<<人間>>の上昇」と呼んだ。これは個人が高められるというよりも、モラルの文脈で語られる言葉だ。<<人間>>とは、神の言い換えだと思う。(人類を、モラルある存在として捉えている。個々が結びついて生まれた「総和」とは違う)
彼は、神から与えられた人間の文明(社会保障、安全保障のことだと思う)を守るためにノルウェーを救おうと奮闘した。
その際の出来事が、本書で綴られている。
正直、全くといっていいほどサンデクジュペリが書いていることを正確に理解していない。ただ感動があるだけだ。
自由は、これまでの人生で何度も考えてきた。そして、すごく分かるようで分からなかった。
この本で、改めて文明や憲法などシステムを根拠づけるものや、法律や制度のようなシステムを知りたくなった。
そして夜、ケン・ローチ監督の『わたしはダニエル・ブレイク』を観た。疑似家族を作らなければ生きていけない人たちが、不条理に曝される姿を観ていると、映画を撮る自由について考えたくなるし、彼の作品から滲み出る質実剛健さが、照明とは闇や影を照らし人を映えさせるものだということも分かった。
ありがとう、ケン・ローチ。
俺は闘い方の片鱗をあんたから学んだよ。
7/27 欲しかったもの
ここ数日間、なんのストレスが欲しいのか悩んでいたが、簡潔に言ってしまえばアウトプットすることからのストレスが欲しかったんだ。
映画を想像することに激しくなりたいよ。