2/24 閃光少女と漫⭐︎画太郎と江頭2:50

飯食って仕事して、寝ようとしてる。

 

最近やたらめったら眠いのは、

脳味噌を使いすぎてるのだとしたら

自己満足感が過剰になるので至極最高だ。

 

まぁ、東京事変の閃光少女の感動を

学問的に説明できそうな気がしてきたので

あながち間違いではないだろう。

 

しかし、映像が学問的に解説できても

感動の程度が違う人たちには

その科学的な説明は空回りするのだ…。

自分が楽しいからいいのだけど。

 

漫⭐︎画太郎も、楽しくてああいう漫画を書いているのだろうか。私は彼を窓際族の狂人と呼んでいるのだが、彼は何度も作中で飛び降りて自殺しては同じ漫画を繰り返しつつもどこか微妙な変化を遂げてまた死ぬ。

彼の青春を詳らかに説明しようとしてもそれは恥さらしである。二日酔いの人間の心理は、取るに足らない。

 

あの凄くないと思わせる凄さはなんなのだろう?

己のあの一面に、傑作の足音が鳴り響くのを確信しているのだろうか?それとも生き続けるための手段としてただ漫画を選んでいるだけなのだろうか?

 

漫⭐︎画太郎の変わらない画風も、

江頭2:50が人々(主にイケてない人たち)の心に安らぎを与えるあの芸風の共通点は、全く何もなさ。何もないが、劇的な反応が心に生まれている。

 

それが、心に染み入るのはなぜ?

3.11後の、「いつもの何気ない生活」を今でも思い出すのは何故?

 

決して凄くない凄さが、人の心を立体的にするのであれば、世間が騒ぐ凄さとは単なる「表面上」での出来事なのである。

 

おめでたカップルは倫理を優しく撫で、

不倫は倫理を逆撫でる。

 

立体的な凄さは、普遍的な真理。

普遍的な真理は、決して倫理ではない。

倫理とは程遠い代物が真実というのだから、

今日も人間は仕方なく真実に胸を痛める、らしい。