8/13 健康と創造
生き抜く力はダークサイドに落ちる危険もあるのでギスギスしてしまう。物事は楽しくないと、本当の力は発揮できない、本心が届かない。本当に大事なことは、言葉では伝わらない。肌感覚の話。
生き抜く力を嫌悪はできない、人間という生き物が作る関係は一筋縄でいかない。
また、お金を嫌ってもいけない。滅私の社会は各々が目指した結果であるが、現実的ではない。むしろお金がもたらしてくれた喜びをみんなで分かち合おう。
そして、新しい世代の考えること、動きを軽視してはいけない。訳がわからなくて当然なのだ。しかしそこには意味がある、喜びがある、熱中がある。それを感情論で片付けて良いのだろうか。科学的に悪影響だからといって引き離していいのだろうか。俺には分からないが、問題を問題にしているのは問題にしたがりの押し付けなのかもしれない。
そうした嫌いなことを認めて、自分が動こうとした時、相手の意見も輸入してみると、新しい発想が生まれたりする。カレー。肉じゃが。ラーメン。
不味いモノを食べ続けるより、少しずつ工夫してうまくしていく方が楽しくて、身体に良い。ストレスも緩和されていく。
新しいモノは人間にとって刺激的で、精神衛生学上好ましい。
8/12 バカがために鐘はなる
頭で考えても思いつかないときは黙って別のことをやるに限るなとおもう。また、寝る時は寝て体力を温存するに限る。飯を食う。無理しすぎない。だらだらしない。時間にゆとりを持つ。時間もお金も多く見積もる。
夢を見る。楽しいことばかり考える。長くは考えない。なるべく動く。人を否定しない。そういう考えもあるし、やってみようかって提案する。嫌われても、大事なことは言う。決定権が別の人の場合は仕方ないとすぐに忘れる。
身分不相応なバカなことをやる。巻き込まれたいバカを見つける。バカを動かすために金策を練る。バカだと思われても自分の意見は伝える。
8/11 海外
今日から8/18までフィリピンで撮影の仕事だ。昨日の晩まで不安に悩まされていたが、今は気分一転、良いものを作りたいという気持ちで落ち着いている。
想定外の出来事も楽しみだ。
憧れの存在にはまだまだ遠いけど、
自分なりの力で一歩一歩近づいている。
この生き方を選んできたことを誇りに思う。
そして、帰ってからも予定がある。
会いたいと言ってくれる人がいる。
俺はその人たちに何ができるのだろう?
その出来ることをより、素晴らしいものにするために前衛的な生き方でありたい。
もっと他の人とは違うファッション、言葉、作品を身に付けたい。
今の仕事もどうすればベストを尽くせるだろう?周りがアイディアを、楽しいという感覚を場に投げかけてくれるためには、俺は何が出来る?
現地に到着した。運転手のテリーに再開し、ホッと胸が安心する。周りの景色を観察していると、セブンイレブンなどの日系企業が多くあることに気づく。それを撮っているうちに、フィリピンならではのものをお客さんに届けたいなと思った。どこにでもあるものの良さは、今はこの映画には関係なさそうだ。ローカルの遊び心を探りに行こう。
…電信柱の数、水牛、傘状な広がる植物、トタン屋根。
日本ではあまり見られない光景だが、インドやタイ、沖縄で近いものを見た。
もっと探ろう。その土地の魅力を、ステレオタイプに呑まれないで描こう。
8/10 深い深い連絡、愛してくれた人からの手紙。
1つ、大事な連絡がきた。来るべき時が来たのだなと思うとともに、なにか湧き上がる想いがある。日程に対する希望か。喪失以後の世界に何があるのか。観測しなければならない。
感覚でしか分からない。言葉はあまりにも多くのものを排除する。俺が辿りたいのは俺の過去であり俺の未来だし、それは具現化されることによってマヤカシを超え、誰かの物語にもなりうる。
要するに創造なのだ。
それで良い。その態度で向かう。
愛してくれた場所、居てもいいよって言ってくれた場所、そしてそれは俺が選んだ場所なんだ。
8/10 ー『罪と罰』と『天気の子』ー
今日、新海誠監督が舞台挨拶に来るということでワクワクして劇場に向かった。質問したいなと思い色々考えていったがどれも聞く必要のなさそうな質問だった。今思えば、その質問は全部、あなたの作品が大好きです、という意味にしかならないのだ。だからこれから語る『天気の子』の理論は独論だし、難しい言葉は使わないし、社会的なメッセージよりも、「愛してる」気持ちを絶対的に優先したい。
『天気の子』は、徐々におかしくなりつつあった東京と、それを救うための人柱となった少女、そして少女に力の行使を求めた少年の話だ。
俺が思うに、「決定的」というのがポイントなんだと思う。それまでも何かしらの兆候があった、というニュアンスが感じられる。
どんな事件でも突然起きたように感じるけど、当事者達による事件の下ごしらえは存在する。
それは組織内でも同じだし、政治だって同じだ。事件は、突然ではなくゆっくりと忍び寄ってくる。そして一度起きてしまえば、景色をガラリと変えてしまう。今後のカジノ法案も、格差もまだ決定的ではないけど、「決定的」にするために動いている人たちがたくさんいる。
『君の名は。』が天災による話だったのに対し、『天気の子』は人災の話だ。
隕石は予期できない。人災は、予期できる。ただしどちらも止められない。
主人公にとって大事なのは、自由都市東京ではなくヒロインだった。東京が人災にまみれたからこそヒロインと再会できた、ヒロインと再会したことで人災が起きた。
ヒロインさえ人柱になっていれば人災に合わずにすんだのに、という意見だった成立する。
(これが須賀の考えだ)
しかしエピローグで主人公は自分が犯してしまった人災に対して、「これは僕が選んだんだ」と納得しヒロインとの再会を喜ぶ。
須賀の視点(第三者)から見ればだれか人柱になって済むのだから、それが一番望ましい。
主人公目線から見たら、どうだろう。
「好きな人がいなくなってしまった晴れの東京」と、「好きな人がいる水浸しの東京」。
『罪と罰』で、ラスコーリニコフは自分なりの正義を執行し殺人の罪を負うことで、愛について理解することができた。本作の主人公も、自分なりの正義を執行した話である。
きっと納得しづらいのは、正義執行の影響力及び規模感にあると思う。俺なりの解釈で言えば、帝政などのように庶民が参政権がない時代は個人の影響力など無に等しいのかもしれないが、民主主義は一票で勝負が決まることがある。それによって、政治は変わる。
また今年の4月には爆薬を作る高校生もいたし、もっと言えばインターネットで何でも繋がっている時代、一人の権力なき人間でも、歴史的には考えられなかった規模の事件を起こせる。北欧の国でも一人の学生が起こした環境に対する運動が世界中で広がり、どんどん新しい動きを見せている。
そういう時代背景も反映している。
『天気の子』と『罪と罰』。
愛は、横暴かもしれないし、独善的かもしれない。だから決して良い話ではない、だから好きだ。
8/9 美容師と話して
今日はライフノーレッジ社長の白倉さんとお話ししたのが印象深い。美容師の人が語る新潟のポテンシャルは、経済よりも文化的な視点に立脚していて、「楽しいって良いよね」という幸福論に基づいた展開だった。それは、悲観的な観測で物事を語る僕からしたら、明るくてついて行きやすかった。
悲観的言動では、人は急にリスクを背負った気分になって辛くなってしまうことを感じ、少しずつ辞めていくことにした。「才能がない」というのも、結構ダメージがでかく、だからこそ伸びた自分もいたのだけれど、それは俺にのみ適用しよう。
街づくりは考えていて楽しくなるが、現実面を考えると途端につまらなく窮屈になってしまうのは新潟の特徴だろう。政治的に言えば革新勢力が30年以上も新潟市の政権を握っていたし、政令指定都市になって権力が強くなってからはバリアフリー・使いやすさなどは埋め立て工事でもしたのか一切感じられなくなった。
パブリックなものに対する期待感は無くなってきたけど、それは打開できるものだと信じている。
今は映画製作に集中。ゆくゆくは、もっと大きな夢を叶えていく。それは一人でできることではない。
8/8 お金と文明
いま役者の書類選考を行なっているが、改めて「お金」の重要性、すなわち人を生かすことについて考える機会を得ている。
よく、現場は苦しいと言う。その苦しさで若者は夢を諦め、身体を壊す人もいる。
宿泊費はバカにならない。交通費もかかる。ロクに給料は出ない。こうした苦労話は笑い話として聞かされてきたが、いつの間にかその当事者にいる自分を見つけた。
人は、お前を片隅の人間だとバカにするだろうが、俺はこの調子でいく。然るべき金を払う人でありたいと願う。
しかし数字はこれまで出してきた結果ではうんともすんとも言わない。数字の世界は、野生の世界でもあり力の世界でもある。獲得すべき目標のためにどう脳味噌を振り絞るか。
まずは、苦痛の最中に飛び込むことだろう。気づいたら苦痛と膝を合わせる生活に慣れていくだろう。
俺が始めた仕事で、人が幸せになること。
役者もスタッフも、そしてお客さんも。
文明のために。